パンドラの箱U

Aug.17, 2014

 

アインシュタインの手紙

 アインシュタインは有名なルーズベルト大統領にあてた、ウランの核反応がもたらすエネルギーの応用のひとつである爆弾の製造が現実的になったことを知らせる手紙をかいた。この手紙の経緯については詳しい記述があるので、ここでは詳しくふれない。科学者の個人的な(感情的な)決断が人類がパンドラの箱を開けるきっかけとなった。

 ロングアイランド、ナッソーで署名されたとされる手紙のいきさつは複雑である。アインシュタインは欧州(ドイツ、スイス、チェコ)を渡り歩いて、20世紀の理論物理の発展の根幹となる研究成果を上げたが、ナチスドイツの迫害が迫ると1939年に米国に渡り市民権を得た。


 アインシュタイン=シラードの手紙と呼ばれる第一の手紙は住んでいたロングアイランドのナッソーの住居にシラードと固体物理学で有名なウイグナーが訪ねて、核反応に関する研究の進展を説明したことがきっかけとなる。当時の彼は核反応の詳細な知識を持たず、研究現状の把握もしていなかった。このことは手紙の文章にもあいまいな記述があることでも伺える。

 ナッソーはロングアイランドの中でもマンハッタンに近いクイーンズとブルックリン地区の東にあり、ニューヨークから郊外のコネチカットやロングアイランドへの移動でできた、高級住宅街である。静粛な環境がアインシュタインが最も望んだ条件だったのだろう。その後、大学町であるプリンストンに移り住むが、ここも研究に集中できる環境であった。



第四のアインシュタインの手紙
 アインシュタインの手紙は4通有ることはあまり知られていない。第四の手紙はニュージャージー州、プリンストンからのものだ。多くの記述は第一の手紙に関するものなので、ここではルーズベルトが亡くなったため、読んでもらえなかった第四の手紙を紹介する。ここでもシラードの提案を紹介している点は興味深い。


 第一の手紙同様にシラードは有識者代表として知名度の高いアインシュタインを利用した。奇妙なことに前書きでシラードの提案を紹介するといいながら、自分は中身を知らない、とわざわざ断っている。重要な案件を第三者に紹介するときに自分は知らない、と付け加えることは、学者がよくやる責任回避策である。アインシュタインは提案は自分が関知しない、つまり提案には関わりたくない、という意思表示とみてよいだろう。もっとも変人で有名な二人をはずしたのは軍からみれば当然だったであろう。

 1939年の第一の手紙を読んだルーズベルトは、すぐさまブリッグス(当時のNIST長官)をリーダーとしてウランに関する調査委員会(S1ウラン諮問委員会)を発足させた。アインシュタインは1939年の手紙にふれ、シラードが手紙をかくように頼み込んで来た際に、ウランの軍事的価値(原爆)を重要視していたこと、また彼が連鎖反応を起こす装置について知見を持っているから、彼の意見と提案をきいて欲しい、とルーズベルトに訴えている。


アインシュタインの気持ち
 アインシュタインの気持ちは手紙の最後で明らかになる。伝えたい事を最後に持ってくるあたりは、日本人的な流儀であるが、1922年の訪日の際に日本の文化と相手を思う和の精神に影響を受けたこともあるのかも知れない。または気がとがめて言い出しかねたのだろうか。


 ここでもシラードが自分には研究の秘密維持のため内容を明かしていないことを認めた上で、専門家の意見として米国政府の計画に関して本来有るべき科学者(暗にシラードを指す)と政治家の意思疎通がなくなっていることを訴えた。

 時系列的にみれば、第四の手紙が合理的でない事に気がつく。第一の手紙の後、ブリッグスはルーズベルトの指令で、すぐに動いた。シラード、ウイグナーと10月に会い、翌11月には統領宛の報告書を作成し、潜水艦の動力源として核分裂反応の調査開始を報告したのである。


 ここではあくまでも原子炉が第一目標、補足的に原爆の可能性を指摘するにとどめた。この時点ではシラードは(本人の希望通り)大統領の顧問といえる立場であった。しかしルーズベルトが原爆製造に舵を切ったのは、1941年10月に英国政府が原爆製造が可能である事を伝えた時である。以後、ルーズベルトはシラードを蚊帳の外においたようだ。



マンハッタン計画
 その後、オッペンハイマーをリーダーにロスアラモス、オークリッジ、ハンフォードの3拠点を中心にマンハッタン計画が秘密裏に進められることになった。マンハッタン計画に関しては詳しい書籍が多数有るので、計画の経緯は割愛するが、最初の核実験トリニテイは1945年7月にロスアラモス研究所から遠くないニューメキシコ州のホワイトサンズでのファットマン型原爆であった。


 アインシュタインの第四の手紙は1945年3月なので、トリニテイ実験のあとではないにしても、マンハッタン計画の進行状況について、シラードも知らなかったことになる。つまりはシラードもアンンシュタインも3年間も通簿桟敷に置かれていたということである。

 国家プロジェクトの企画段階ではできるだけ多くの科学者から、アイデアをもらい計画の斬新さを専門家の総意で知恵を出し合い、協力して進める。しかしいったん予算がつくと役人や政治家に迎合する学者(御用学者)に強い権限を与え、動き出した計画に妨げになる派閥を追い出して、一種の思想統一をはかる。こうすると意思決定が短縮化され無駄な予算がいらないので、効率が上がるのである。



動きだした計画はパンドラの箱を開けた
 マンハッタン計画ではトップのオッペンハイマーの元で必要だったのは、(顧問でなく)当時新しかったシステム工学の技術者と労働者たち、つまり実行部隊であった。潤沢な予算のもとに大量の雇用が確保され、難関をひとつひとつ解決しながら史上初の原爆製造計画は3年で原爆実験にこぎつけた。

 シラードやアインシュタインは基礎科学者で、いったん連鎖反応の条件(ウラン濃度)がわかると、平和主義者である彼らは爆弾製造には必要なかった。また爆弾製造の情報を米国にもたらした英国はシラードと関係を喜ばなかったと思われる。シラードがこの3年間の状況を把握できなかったほど、情報統制は厳しかったようだ。しかしさすがに原爆実験の3月前となれば、何らかの情報はシラードの耳に入ってきたのであろう。

 仮に原爆の実験を察知したとしよう。シラードやアインシュタインにとっては寝耳に水であり、自分たちが先鞭を付けた分野なのに何故、意見をきかれなかったのか、またアインシュタインにとっては(ドイツが敗戦したいま)投下されるのは日本であるから、当時、枢軸国でありながらユダヤ人迫害に反対であった国を原爆攻撃するのは避けたかったのだろう。また一方では計画に無視されたことが悔しかったのだろう。アインシュタインはその後、(第一の手紙も含めて)かくべきではなかった、と悔やんでいる。



科学者の社会的責任
 科学者の社会的責任ということでは、アインシュタインの手紙はかかなければよかったことになるだろう。往々にして科学者の思い込みである性善説は理性の鏡を曇らせる。アインシュタインの場合は自分の家族がナチスから受けた苦痛を思いはかるあまり、理性の鏡が曇った。きびしいようだが科学者として優秀だが人間失格だった。環境がそうさせたと擁護する人もいるだろう。しかしユダヤ人虐待に怯えた恐怖心がきっかけになったとしたら、やはり人間失格の資格に値する。


 本当に手紙をかかなければどうなっていたのだろうか。ドイツの研究情報はソ連が持ち帰り、豊富な物理学者を動員して原爆開発を進めていたことは想像に難くない。一方で英国も独自の情報を元に原爆製造を開始したであろう。米国軍部が黙っているとは思えない。原爆完成の時間が遅れたにせよ、人類が開けたパンドラから悪魔の兵器を解放されることには違いない。


核拡散は最初から始っていたのだ。パンドラの箱が開けられたのだから当然である。