アミスタッド号事件とエボラ出血熱

Oct. 31, 2014

 

 

 17-19世紀の間にエボラ出血熱が猛威を振るう西アフリカから奴隷として北米、南米に渡ったアフリカ系黒人は1200万人で、北米にはそのうちの5%、65万人であった。欧州の奴隷商人がアフリカの黒人奴隷を「購入」して北米、南米に過酷な環境で連行し、強制労働で生産されたサトウキビや綿を持ち帰り巨額の貿易で利益を上げた。いわゆる三角貿易である。

 奴隷達は窮屈な場所に鎖でつながれ航海中に命を落とす者が少なくなかった。航海中の死者は20%にも達したという。しかし運良く航海に絶えて新大陸に上陸できたとしても、過酷な労働が彼らを待ち構えていた。

 


 奴隷達の中で反乱を起こして船を乗っ取り、母国を目指そうとした男は1200万人の中でたった一人であった。スペイン船のアミスタッド号の奴隷の一人であったジョゼフシンケ(下の写真)である。アフリカ大陸へ戻る事はスペイン人船長のサボタージュでかなわなかった彼らはロングアイランドに上陸し、アメリカ海軍に捕らえられる。

 米国で行われた裁判は「アルミタッド号事件」として世間を揺るがし、後に「奴隷解放運動」を大きく前進させた原動力となった。ロングアイランドは現在はニューヨーク州の一部であるが、当時はコネチカット州に属していたことと、すでに奴隷制度が廃止されていたニューヨーク州と異なり奴隷制度が合法であったコネチカットに連行したことは小役人の考えそうなことであった。

 当然スペイン政府は奴隷の返還を要求し、時の大統領は裏約束でこれを認めていた不利な状況のもとで、コネチカットハートフォードの裁判所で裁判が行われた。これはスペインとアメリカの間で以下の条約が結ばれていたので、奴隷制度が人権無視だから無罪放免という超法規措置はとられなかった。

 "all ships and merchandises of what nature soever, which shall be rescued out of the hands of pirates or robbers on the high seas, …shall be restored, entire, to the true proprietor"

 

 そこで奴隷制度に反対する先進的(というよりはまともな)人々は、奴隷達に英語でスピーチさせてカンパをつのることで資金を集めた。彼らの根拠はイギリスとスペイン間の条約と、これに基づくスペイン政府の宣言によって、大西洋を横断する奴隷貿易は非合法となっていることである。当時のイギリスはスペインと勢力争いをしていたとはいえ、イギリスに逆らうことは世界を相手にすることであった。

 裁判で奴隷達は西アフリカのシェラレオーネ(当時のメンデイ)で捕らえられハバナに移送される予定であったこと、から誘拐にあたり無罪とされた。しかしスペインに同調した大統領はアミスタッド号と奴隷をキューバに返還しようとした。そこで最高裁判所に抗告され最終的な無罪判決が下された。奴隷達はすぐに母国に帰ることはできなかったが、この事件を通して奴隷解放運動が盛んになった。また一連の大統領の裏工作は新聞ですっぱ抜かれて国民の反感を買ったことで、強行措置にでられなかったことも事実である。



 ジョゼフシンケはアフリカ系黒人の英雄となり奴隷解放に貢献したが、その出身はシェラレオーネである。その隣国リベリアはアメリカから帰国した奴隷が建国したとされるが、シンケのような住民がもともと住んでいて、奴隷として誘拐されたのである。

 

 皮肉なことにチャールズダンカンはアミスタッド号事件から175年目に、リベリアからダラスにエボラ出血熱ウイルスを運んだ。