誰でも子供の頃、未来の社会が便利で快適であると信じていただろう。筆者は科学技術によって、人々は何処にでも快適に高速に移動する時代が来るとワクワクした記憶が有る。現実はどうか。浜崎あゆみの"Duty"の歌詞(以下)は共感を呼ぶ。
誰もが探して 欲しがっているもの“それ"はいつかの 未来にあると
僕も皆も 思い込んでいるよね
なのにね まさか過去にあるだなんて
何故こうなったのか。宮台真二氏は(特に日本では)科学技術が(村をつくり勝手に暴走し)社会制御できないことが問題だと指摘する。地球温暖化の問題や原子力の問題があるが、ここでは移動手段としての自動車について考えてみたい。メーカーや関連する役所、それらのつくる財団は国境を越えた巨大な村を形成している。こうした自動車社会(村)が描く明るい未来に向けたシナリオに反して、ハイブリッド車(HV)はおろか、電池自動車(EV)も燃料電池自動車(FCV)も普及しないという見方がある。
太陽電池が一般家庭に普及しない、というのと同じような議論である。そもそも自動車産業はアナログTVと同じに完成された原理の技術を、メーカーの利益が損なわれないようにかつユーザーの購買意識をくすぐりつつ、村民の利益(販売台数)をのばす事を優先して来た。そこに原理的な欠陥があるようだ。米国でのHV販売台数が増えた原因のひとつは、原油価格の急騰であった。オペックによって原油輸出に規制がかかり基軸通貨としての石油ドルに危機感がでた。
中東戦争が勃発(というよりは仕組まれ)、米国内の原油価格が急騰し購買者が燃費に目を向ける事となった。燃費の良い日本車
が売れだすと通商交渉で圧力がかかり、現地生産の割合が増えた。グローバリゼーションのもとで低賃金国に生産拠点を移すことが大衆車メーカーのみならず高級車メーカーも当たり前となった。筆者が中国で乗ったBMWはシートベルトが欠陥品で動作しなかった。ドライバーは気の毒そうな表情で、"Made in
China"といった。その瞬間にこの世界(村)では販売が全てだということを実感した。
しかしよく考えてみて欲しい。生命にかかわる安全を自己責任とした原始的な乗り物にすぎないのだ。車の駆動エネルギー源を化石から電気に変えても、原理的に個人が運転する、ことは旧来のままだ。そこで自動運転技術というのは馬鹿げている。この辺で意識改革が必要なのではないか。
車には個人の移動の自由があるから、あえて残すとしても水素など新駆動エネルギー供給を社会インフラとして整備したり、乗客のオンデマンド新交通システムを考えて、初めて省エネルギーといえるのではないだろうか。長距離移動手段として車は劣るのだから、欧州のように貨物列車で長距離輸送するサービス(写真)も渋滞解消と省エネにつながる。貨物輸送が減っているJRにも朗報だろう。ついでに宅配便のように配車オプションも用意したらよい。
自動車産業はこれまで圧倒的なメーカー主導で普及と繁栄が堅持されて来た独特の産業である。個人から低公害公共交通機関への移り変わり、車から列車へ、バスからトラムへ、の大きな流れさえ視野に入るが、村民の技術力と労働力そして資金を投入するべき時が来ている。