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ドイツの移民政策
いまから5年も前からメルケル首相はドイツの移民政策に対する過去を清算させられる羽目になっていた。戦後の復興を託してその恩恵を全ドイツ国民が受けたはずの移民。重工業の発展を支えた1960年代にさかのぼる南欧州、特にトルコからの労働者たちをドイツは確かに表向きには移民として受け入れた。
だが実際はどうだったのか。積極的な移民政策により「移民の背景を持つドイツ国籍者(すなわち移民と子孫)と外国籍保有者が国民5人に1人という現実がある。しかし移民たちはドイツ国内で一般市民として受け入れられたわけではなかった。
反省と決断
ドイツ国籍を持つことができない外国籍保有者は9%。10人に1人が外国籍のままである。移民の多くは労働者であるため、彼らは工業生産に寄与したばかりでなく1972年から人口が減少し続けるドイツ国民の高齢化も補い、統計上の人口減少がまぬがれた。
ドイツは移民の寄与を認めゆっくりと彼らを社会への適合させるとともに、技能を持つ労働者を積極的に受け入れる政策を進めていた。しかし2010年10月28日にメルケル首相が公式に「過去の移民をドイツ社会に溶け込ませる政策」の失敗を認めた。
つまり移民の貢献度は否定しがたいものの、ドイツ特有の「民族的純血主義」により、移民の市民権取得に背を向けてきた、ことについて反省を行うとともに、(一定の条件を満たすことを前提に)市民への道を開く姿勢をみせたのである。
5年後に起きたこと
時は流れて5年後の2015年。メルケル首相の発言に希望をつないだ難民たちが、予想を上回る規模で大挙して押しかけた。しかし60年代のトルコ系移民といまの難民はイスラム系とはいっても異質な存在である。東西の接点といわれるトルコは地政学的に欧州の一部であり、EU加盟国ではないがNATOの一員である。イスラム圏ではあるが、宗教の縛りは緩く若者は西欧化され、実質的には欧州社会に溶け込む下地がある。トルコはドイツに「貸し」があるとばかりに、EU加盟へドイツに圧力をかけている(下の写真)。友好的なトルコ系移民と同様に今回の難民の目的が就労にあるのか、対立する文化を侵食する「トロイの木馬」なのかは不明である。
Photo: Spiegel Online International
ドイツを目指して北進中のシリア系難民は筋金入りの若いイスラム信者で、シリア内戦、特にIS、から逃げてきたとはいうものの、宗教的な結束力は戦争を経験しそのしたたかさは60年代にドイツに友好的に社会に溶け込もうと努力したトルコ系移民とわけが違う。
難民を助けたシェンゲン協定
EUに加盟している25カ国の間では国境検査なしで国境を越えることを保証するシェンゲン協定。入国管理においてシェンゲン協定に加盟している国のパスポートを持つ旅行者はいわゆるパスポートコントロールの長い列に並ぶ必要はない。
現在はEU加盟国でシェンゲン協定に加入していないのは英国、EU非加盟国でシェンゲン協定に加盟しているのはスイス。協定国のパスポートを持てば欧州は自由に行き来できる。今回の難民騒ぎでシェンゲン協定の関連規則のダブリン条約をメルケル首相は無視することになった。
シェンゲン協定では難民あるいは亡命希望者の属する国から、難民が最初に入った国で難民申請をし登録をすることを定めている。つまりEUに国境を越えて入った場合、難民申請が済むまでは最初に入った国から外には出られないはずである。
ダブリン条約を無視したメルケルの意図
メルケル首相は「シリア難民に限って受け入れる」ことを表明しているが、ダブリン条約によればハンガリーで足止めをくっている難民は難民申請をして認められなければ勝手に出国できない。
ダブリン条約に忠実に従ったハンガリーはあまりにも大量の難民希望者の書類処理ができなかった。しびれをきらした難民たちはドイツに行けばなんとかなると思い込み、道路をつかった大移動が始まった。きっかけはメルケル首相がダブリン条約を無視したことが原因である。
その背景には2010年のメルケル首相の移民政策緩和ともとれる発言があった。メルケル首相の思惑と意図は何か。過去を反省して市民権を与えるのか、また安い賃金で労働させるのか。今後の扱いでその真偽がはっきりするだろう。