エリス島の移民審査
米国移民はニューヨークにやってくると小さな島(エリス島)にある移民審査を受けていた。現在、米国民のおよそ4割がそのエリス島(注)で審査を受けて米国にやってきた人たちか、その子孫であるという。もちろんいまはエリス島に行く必要は無い。当時の移民は期待に胸をときめかしてリバテイ島に立つ自由の女神(上の写真)をみながらエリス島に連れて行かれた。審査を受ける移民達にはきっと自由の女神が微笑んでいるように見えたことであろう。
入国を許された者にとっては希望の島であり、許可されなかった者には強制送還という恐怖の現実が待ち受けていた。自由の女神と合衆国憲法に自由を守られた米国であるが、自由がそこに住む誰にでも与えられたわけではない。北米先住民の居住地、戦時中の日本人収容所などに代表されるように、不自由の世界と共存する自由の国であったのだ。移民政策に限らず、この2面性は米国の歴史や文化を理解する上で鍵となる。自由の女神のリバテイ島と移民達に恐れられたエリス島は2面性を象徴するようだ。
(注)エリス島とはニューヨーク湾に自由の女神像近くに位置する小さな島で、現在は文化遺産となったが、19世紀後半から60年に渡りヨーロッパからの移民が米国へ入国する場所であった。当時の移民審査は簡単で渡航カード(I94w)同様に、口頭で質問に答えるものであったが、質問事項のひとつが移民達の運命を決めた。所持金である。当面、職が見つかるまでやっていける金を持っているかどうかだ。決して大金ではないドルを持っているかどうかで移民として受け入れられるかが決まる。
サンデル教授が最近の著書「それをお金で買いますか」で、トラブルをお金で解決しようとする米国流儀を批判している。有料で列に並ばないで済む国の文化はエリス島の移民の受け入れ(19世紀後半)から始っていたのである。
1965年の移民法ー分岐点
米国の移民政策は数多い立法となったが、とりわけ1965 年の移民法修正による国籍別割当の廃止は急激な移民増加の引き金となった。人種、祖先に基づく移民割当の廃止となり米国市民の配偶者、子供、両親は規制がなくなった。また米国永住権保持者の親戚、および米国で必要とされる職能を持つ人たちに優先順位をつけた、選択的移民政策の色彩も強くなった。
この移民法修正までの移民の比率は、欧州 50%、北米 35%、アジア8%、その他7%であった。移民の大半は白人でアジア、ヒスパニックは少数であった。しかし人種、祖先に基づく移民割当の廃止で ヒスパニックとアジアが急増し1988 年には年間のアジアからの移民が全体の 41%で1位となった。
2000 年の統計によると、米国に居住する移民の中でヒスパニックの人口は 3,530 万人、うちメキシコ系は 2,100 万人でダントツの1位であった。メキシコ以外ではプエルトリコ、キューバ、ドミニカ)、エルサルバドル、コロンビアなど中南米となっている。
「外国生まれ」の人口総数のうち、メキシコ生まれは784 万人で全体の28 %を占め、アジア生まれの725 万人を上回る。この時点では(香港と台湾を含む)中国は139 万人でメキシコのおよそ6分の1でしかなかった。2014年には中国からの移民総数は年間で960万人にも及び、米国とカナダでの永住権を目的とした中国人が最も多い。
しかし米国やカナダでお金を払って、つまり現地企業に投資する見返り得られる永住権を取得するには、認定された事業に多額の投資が必要になるし、英国やオーストラリアなど彼らが食指をお伸ばす国の投資基準は高くなった。各国とも歯止めをかけようとする意図が認められるが、米国の1882年の「中国人排斥法」ほど特定国を明確に排斥した例はない。
移民法で変わった社会構造
世界最大の移民受け入れ国である米国の情勢は1965年以降に急激に変化した。国連の移民統計によると、2013年時点で米国には4,600万人の移民が居住しているが、出身告別でみると、1位はメキシコの1,300万人。2位は220万人の中国、3位は210万人のインド、4位は200万人のフィリピンとなっている。アジア系の移民が急激に増大していることがわかる。
2050 年までには、米国の人口は、 26%がヒスパニック、8%がアジア系、 14%が黒人になると予想されている。つまり2050 年までには米国総人口の半分が 1965 年以後の移民またはその子孫で構成されるということだ。1965 年の規制緩和が移民問題に影響が大きかったかがわかるだろう。
ちなみに米国の黒人は 1808 年に奴隷貿易が禁止される前に米国に来た黒人の子孫で、現在問題にされている移民ではない。米国移民の最近の傾向は1965 年以来のヒスパニックとアジアからの移民の急増につきるといってよいだろう。
有名なリンカーンらの努力で1865年に実現した憲法修正第13条で、黒人奴隷が解放され、1868 年の憲法修正第14条で「米国で生まれるか帰化し、その管轄下にある全ての人は米国の市民である」として市民権が保証されることになった。しかし、移民の規制が緩和されるのは1965年であり、移民の公平な扱いが実現するのに100年近くかかっているのである。
また北米先住民を市民として認めたのは、黒人を市民としてから更に56 年後の1924 年であった。自由平等を強く掲げる米国にあっても人種間差別がなくなったのは20世紀になってからであり、19世紀後半には1870 年には「帰化法」を改訂、「米国市民は白人とアフリカ人の子孫に限る」とし、1882年の「中国人排斥法」で明確に、中国人差別を行う等、規制強化も行って来た。
ベトナム戦争は米国を疲弊させ若者の精神を歪めた。国内的には貿易赤字が深刻化し生産を高める必要に迫られていた。
「飴と鞭」の移民政策
オバマ大統領は470万人の不法移民に合法的地位を与える行政命令を出した。これによりアメリカ市民と合法的滞在者の親、およそ370万人と、100万人の不法移民が、国外退去処分を3年間免除されることになる。不法移民を国外退去させるのは不可能だという現実的判断と考える人もいるが、これは間違いである。貧困にあえぎつつも必死で働き、家族を安定に暮らさせたいと願う不法移民は、米国にとって産業を支える労働力で、決して排除できないのである。
不法移民に対する容認の態度と取り締まりの強化という「飴と鞭」の政策は今回に限ったことではない。1965年の移民法制定による大幅な規制緩和と急激に移民が増えるとなると規制に走る。米国の移民が貴重な労働資源でありと国内消費を支える一角をなすことを自覚する一方で、人口増加による白人社会の少数化に怯えるという2面性を持つことになる。
これは先進国に共通にみられる傾向であるが、移民の多い米国では必然的に顕著であった。これまでも米移民政策は修正動議や立法で臨機応変に移民を「制御」しようとするものであったが、1965年の規制緩和同様、今回の不法移民に合法的地位を与える行政命令は過激な措置であり、移民を支持基盤とする民主党の内部抗争、共和党との対立構造の両面において不安定性をもたらすことは間違いない。
1965年の米国
上の写真のRolling Stonesが「Satisfaction」(注)でビルボードの上位ランキングに名を連ねた1965年とはどういう年だったのか。移民政策の他にも、米国にとって大きな転換点がいくつかあった。日本の経済成長と技術革新によって対米輸出が好転しついに1965年には貿易収支が逆転した。米国にとっては産業の復興が最重要課題であり、そのためには単純労働者に加えて「技術労働力」が必要となった。
労働力不足の危機感が1965年の移民法制定において国籍が撤廃され、技術を持つ移民の優先順位に反映された。米国のベトナム戦争はこの頃には形勢が不利となり1965年には米国が援助した軍事政権がクーデターで壊滅した。またこの年には英国と米国が共謀してインドネシアで虐殺事件を起こすなど、冷戦構造を背景に米国が対外軍事活動に専念した時期でもあった。国内生産性を改善するために移民を増やすことは避けられない選択でもあった。
(注)ポピュラー音楽においても圧倒的な強みであったモータウン系のR&Bに対して、黒人音楽(ブルース、R&B)に起源を持つRolling Stones(下の写真)やBeatlesに代表されるBritish Rockが米国に流れ込んだ。
1965年はそれまでの米国文化に黒人に加えて、ヒスパニックやアジアの多様性が持ち込まれることになる分岐点といえる。新大陸に希望をみいだしたのも、音楽の世界でも新しい要素を取り込もうとしたのも若い世代であった。この時期の米国は若さと活力に満ちあふれ世界中の誰もが羨む国であった。
ノスタルジック漂う1965年型ビュイックElectra