ツポレフの野望

Jan. 1, 2014

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦闘機をつくらせたらミグ、スホーイの競争で米国製より優れた性能の機体をつくり続けて来たロシア。その中でアンドレイ・ツポレフはその他のジャンル、爆撃機、偵察機などを手がけ、輸送機のアントノフ、戦闘機のスホーイ、ミグと並んで軍用機の4大閥を作り上げて来た。他の三社と異なるのは一方で爆撃機と共通性の多い民間機部門でもロシアを代表するメーカーであることだ。


 コンコルドに対抗して製作されたTu-144は外観がコンコルドに良く似ていたため「コンコルドスキー」と揶揄されたが、詳細に調べていくとツポレフ流の独自性が随所にみられる。しかし原型機の初飛行はコンコルドの早い1968年12月であった。この原型機には主翼が独特の曲線で優雅な姿は無骨なロシア製とは思えないものだった。その後の量産型では曲線が量産に向かないため直線となり、先端に高速飛行時に収納されるカナードがつき、中央部にまとめられていたエンジンが左右に分離してさらにコンコルドに似ることとなった。しかし量産性を度外視すれば原型機の曲線の主翼はツポレフの独創性を誇示していた「コンコルドスキー」で片付けられないものである。


 コンコルドの経験する問題点、ソニックブームや大気汚染などのをツポレフ機も遭遇することになるのだが、開発時点ではこの問題は認識されておらず、それよりも西側諸国への競争心が開発にGOサインを出した。ロシアの戦闘機については以下のような思い込みとも自信ともとれる言い回しがある。


"When Americans built good (fighter) planes, Russians build better ones."


 この気持ちは宇宙開発を初めとするハイテク産業全てにおいて、ロシア人が心に秘めた思いだったようだ。事実、Tu-144は、燃費を除く性能面ではコンコルドをほぼ全ての面で凌駕していた。燃費の悪さはエンジンの非力さにあったが後期にはエンジンを強力にして燃費性能も向上した。ソ連崩壊とTu-144の現役引退は重なるが、同時に米国はTu-144の技術を超音速旅客機開発に役立てようと政治力を駆使する。


 そのため次世代超音速旅客機開発のためのデータ収集を目的とする共同プロジェクトのため現役に復帰しNASAが1996年から数年間試験運用された。「コンコルドスキー」と呼んで西側技術をスパイしてつくられたはずのTu-144を逆に米国が「教材」として、技術を吸収したということである。写真のL-2000はそうした技術で完成させた米国版コンコルドスキーである。ツポレフの先見性のある技術で溢れていた証拠である。


 その後、米国は財政問題と環境問題によりボーイング、ロッキードなど大手の航空機メーカーの超音速機計画が頓挫し、コンコルド、Tu-144以降は超音速旅客機は製造されることはなかった。しかしツポレフは諦めなかった。次なる世代の超音速旅客機Tu-244がそれである。この機体にはTu-144原型機で果たせなかった曲線の主翼が採用され、米国の協力でフライバイワイヤーの操縦系統等のデイジタル化により新世代の超音速機となる資質を備えている。現在でもエアラインのオーダーさえあればツポレフは生産できる体制にある。


 ツポレフの野望はこれだけではない。ツポレフはさらにビジネスジェット用途でも超音速機のニーズを見越して、燃費の良い双発のターボファンエンジン装備の超音速小型旅客機も製品ラインアップに加えた。ツポレフの野望はとどまるところをしらない。いつの日か限られた用途で超音速旅客機が復活する可能性はある。1%の富裕層はすでに大手エアラインのファーストクラスを「卒業」して、亜音速のプライベートジェット機で移動する。彼らが半分の移動時間に興味を持つ可能性は高いからである。