Photo: the guardian
Zaha Hadidのデザインによる2020年東京オリンピックのメイン会場となる国立競技場をめぐって、ふたつの問題が起こっている。ひとつは特徴である屋根を支える2本の巨大なアーチの建設費が巨額になり財政負担になること、もうひとつは斬新なデザインが付近に調和しない「ハコモノ」となるとして、多くのデザイナーが反対していることである。
Zaha Hadidとは
Zaha Hadidの名前は聞いたことがないという人でも物議をかもした新国立競技場のデザインコンペで優勝した建築家といえばピンとくるだろう。既成概念を壊す新進気鋭のデザイナーはどの世界でも反撥を生み、時には迫害される。時代に先駆ける者の宿命である。
Zaha Hadidはイラクのバグダード生まれで、父親は政治家で彼女の幼少期にイラク南部のシュメール文明の都市遺跡をみせて建築家となる将来の方向性をつくった。欧米流の教育を受けたのちに英国に渡り建築専門大学に進み、ロンドンの設計事務所で働いてから1980年に自分の設計事務所を開いた。
その後1994年に英国カーデイフのオペラハウスのデザインコンペで優勝したが、斬新的なデザインは土地の伝統に合わないとして、コンペのやり直しや建設中止などの問題を起こした。
それ以降はシンガポールの都市計画コンペ優勝を始めとして、世界のデザインコンペの常連デザイナーとなり2012年の新国立競技場のデザインコンペで優勝した。
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都市建築以外にもインテリアやクルーザー(上の写真)など広範囲な分野で、一目で彼女とわかるデザインを手がけているが、特徴的なのは「有機的で女性的な大胆な曲線とアーク」である。
最近ではロンドンの葉巻型をしたLoyds Buildingや、ドバイのホテルを始めとする一連の中東建設ラッシュにおいて、同様の「アークモチーフ」は頻繁に見いだされる。
下の写真がそれらを代表する船の帆をイメージしたドバイを象徴する高級ホテル、Burji Al Arab。確かに未来都市から飛び出したようなデザインで、「力強さ」を感じる。ちなみに国際コンペの審査委員長であった安藤忠雄氏も、Zaha Hadidのデザインにポジテイブなコメントを残している。
Photo: Losurdo Viaggi Studio
こうした多少レトロっぽさを感じる曲線は「生命のダイナミズム」を表現したととれる。そういう意味では彼女のデザインはアヴァンギャルドの先端にありそうだ。カタールで2022年に開催予定のW杯の中心的スタジアムのデザインは「女性器」を連想するとして、物議をかもした。彼女のデザインポリシーは下記の対談でわかるように、戦後の建築デザインに対する既成概念の打破(アンチテーゼ)と思える。
現在、国立競技場の建設費が3,000億円を越えると予想されていて、財源の捻出面で建設費の圧縮が試みられているが、現実的な建設費は2,500億円を下回ることは無理とされる。またこうした建物の多くは受注獲得のために現実的でない見積額で、工事が進むにつれて建設コストが跳ね上がるの。2,500億円で工事を始めても3,000億円となっても不思議ではない。
財源の問題はともかく、問題は多くの日本の建築家がデザインそのものに周辺(東京)との整合性に問題をみいだしていることである。またこの問題について関心のある人の声は大多数が、彼女のデザインを変更しての建設に反対、すなわち予算を圧縮して当初のデザインこだわる必要がない、としている。
読売新聞社の世論調査では、新国立競技場の建設計画を「見直すべきだ」と答えた人は81%に達し、「そうは思わない」の14%を大きく上回った。有識者会議(7月8日)で現状の2,500億案に対し、国際コンペ審査委員長である安藤忠雄氏の発言が注目されるが、同氏は市欠席を決めたことで今後の展開に暗雲が立ち込めた。
デザインか経済性かの選択の期限が迫っている。
guardianの主張
ここでguardianの記事を見直してみよう。Zahaによれば80,000人収容(注1)の「国立競技場のデザインを日本の有名建築家が批判した」(注2)ことは、偽善であり馬鹿げているとしている。
(注1)80,000人収容にこだわる理由はオリンピックではなくW杯主催には80,000人収容の競技場が必要になることである。国立競技場はこの条件を満足するために収容能力を決めた。W杯招致問題が背景にあったことは7月8日の有識者会議で明らかになった。
(注2)建築家の磯崎氏は「日本が沈むのを待つ亀」と表現し、周囲の景観(明治神宮)と整合しない地上70mに及ぶ「巨大さ」が受け入れられないとした。これに呼応して反対するシンポジウムが開催され、多くの有名建築家が一斉に反対を表明した。
Hadidはまたロンドンオリンピックの水泳競技場建設の実績や(物議をかもした)カタールのサッカー場の設計を行ったことをあげて、自分のデザインが採用されることに問題はない、コンペに落選するのは自分の責任、とした。「自分のデザインを否定するのは、単に日本人でない建築家を認めたくないのではないか」と言い切った。
ひとつの建築としての価値は疑いないであろうが、「調和」を重んじる日本においての価値は異なる視点で評価されるだろう。そのことは彼女も認識しているのだろう。「結局、あなた方の国だから」とも述べているからだ。
Photo: The Architectural Review
現実問題
現実問題としてオリジナルデザインで建設を押し切れば、財政負担を残し後に巨大な「ハコモノ」が残る、ことが懸念される。一方で、すでに反対運動に賛成した建築家は100名を超えた。
東京オリンピック競技施設の全面積はコンパクトが売り物であったロンドンやアテネの2-3倍になる見込みで、アテネオリンピクの主催国ギリシャが国家破綻を迎えようとしている現在、経済性は見逃すことはできない。
コンペ委員長の安藤忠雄はZaha Hadidの先見性とダイナミズムは日本が世界に発信しようとするメッセージを伝えるもの、としているが、現在でもふたつの問題は解決されていない。
背景にある根幹の問題
Zaha のデザインはダイナミズムを感じはするのだが、それほどこだわる必要はないように思える。(脱線するが筆者にとっては旧国立競技場は高校の通学路であり、周辺のラグビー場、絵画館、野球場、青年館に溶け込んだ丹下健三のデザインに慣れ親しんでいた。)
ふと気がつけばオリンピックやワールドサッカー、F1、そうした利権に絡む「ビジネスモデル」が破綻しかけているのかもしれない。インフラなき韓国のF1、W杯開催を巡るFIFAの汚職。
現在総務省は2020年度に4K/8KコンテンツのBS放送、地上波放送を開始するロードマップだが、オリンピックを必要以上に高解像度の大型TVでみよう、という掛け声で4K/8K TVが売れるとは思えない。むしろ電子機器を売るためのオリンピック、放送事業に貢献するためのオリンピックという構造がはっきりしてくる。
実際、インフラ整備ができないまま開催された韓国F1やアテネオリンピックのあと、国家破綻に追い込まれたギリシャ。そろそろ我々も賢くならなければならない。"Party is Over"なのだ。